不動明王 窟堂(厳窟堂)、不動茶屋 由来

鎌倉で最も古い窟不動

 窟堂(いわやどう)は不動明王をお祀りした岩屋のお堂です。窟堂の歴史は古く、頼朝が鎌倉に入る前からありました。窟堂に関する記録は吾妻鏡や相模風土記などの史書にも多く記述があります。
南は海に面し、あとの三方を山で囲まれた鎌倉に出入りするのは大仕事でした。船路を利用する以外は山を越さねばなりません。「攻め難く守り易い」と言われたのもそのためです。切り通しを作ったり山越えをしたり、その一つ、源氏山から化粧坂(けわいざか)を経て鎌倉の中心地に至る重要な街道沿いの岸壁の岩屋の中にお不動様は祀られていました。
 今と違って、昔は街道が山の上を走り、従って窟堂も山の上にあったようです。大地震で崩れたりしたため、山裾を迂回するようになった街道とともに、窟堂の位置も下がりました。
 不動明王のお像も、初めは岩屋の奥の壁面に彫られていました。この像は弘法大師の作とも言われています。永い年月の間にお不動様の像も風化し、後に石の像が作られ今に至っております。

庶民の願いを叶えて下さるお不動様

 お不動様は強いお力と、限りない慈しみのお心をお持ちになっていて、諸愚を抑え、迷いを静めて下さる如来の使者、仏法の守護者です。お顔は怒りの相を現わし、右手には悪魔を払う剣、左手には悪を縛る索を持ち、火炎を背負い左右に童子を侍らせています。世の中のすべての苦しみを人々に代わって一身に受け、庶民の願いを叶えてくださいます。それ故、不動明王は、昔から多くの庶民に敬われ慕い続けられて来ました。

愛宕社と松源寺

 窟堂のすぐ東側の狭い石段を上がると、小さなお社 愛宕社が建っています。京都の愛宕神社と同系で、火防の神と言われております。愛宕社の更に東側には真言宗のお寺、松源寺がありました。
 神仏混淆の昔は鶴岡八幡宮に所属していましたが、明治の頃には火災などもあって廃寺となりました。頼朝の位牌も祀られて大層栄え、愛宕社や窟堂もこのお寺が管理していたそうです。

頼朝の悲願と窟堂

 治承四年(1180)八月、伊豆で源氏の再興を祈願した頼朝は、石橋山の戦いに敗れましたが、近くの岩屋に隠れて助かります。船で逃れた房総の地で力をつけ、同年十月には大軍を率いて陸路鎌倉に入り、やがて天下を統一、鎌倉を政治の中心地としました。
頼朝の菩提寺とも言われた松源寺の山号は日金山でした。再興を祈った伊豆日金山の地蔵と同じ日金地蔵を祀ったのが松源寺だとか、「頼朝が急死に一生を得た石橋山の岩屋と鎌倉の窟堂、その隣接地に建てた松源寺」こう考えると八百年以上の頼朝の心情が偲ばれてまいります。

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